トライバル・タトゥーって何?-「先住民族ドットコム」的イレズミ講座【その3】
山本芳美
1968年生まれ。イレズミ研究で博士号をとった珍しい人。図書館司書、雑誌編集、ライターなどの仕事に手を染めた後、台湾に2年半留学する。現在は、都留文科大学比較文化学科講師(文化人類学専攻)。台湾原住民族との交流会会員でもある。
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◆トライバル・タトゥーの文化と歴史
時代がいかに移り変わろうと世界のどこかしらに存在してきたのが、イレズミです。身体の加工法としてイレズミは古代から存在し、慣習としても世界中に広がりをみせています。イレズミの道具は、植物の棘や動物の骨、貝殻に黒曜石など手近にあるものから、金属製のナイフや針、そしてモーターで動く機械と変わってきました。しかし、道具は変わっても原理は同じで、細かい切り傷を負わせるか、鋭く先端がとがった道具により皮膚を傷つけて何らかの色素を入れ、絵や文字を残す方法がとられてきました。暗紅色のイレズミもありますが、多くの民族がほどこしてきたイレズミの色味は、藍色や黒色に限りなく近い沈んだ青です。イレズミの色素には、植物の汁なども使われることもありましたが、樹木を燃やしてつくった炭や油煙、あるいは鍋についた煤(すす)を主に用いてきたからです。色素は、ココナッツや砂糖きびなどの植物の汁や人間の乳汁などで延ばして使われました。これらの色素が皮膚の下に入ると、藍色や黒色に限りなく近い沈んだ青になります。オーストラリアやメラネシア、アフリカの諸民族などイレズミをしても映えない肌の色の人々には、瘢痕文身あるいはスカフィリケーション (scarification)とよばれる行為がみられます。皮膚に傷をつけた後に異物を挿入したり何かを塗ったりして傷の治りを遅くし、ケロイド状の肌をつくりだすのが瘢痕文身です。傷灼といって、肌に焼いた石やこてなどをあてて文様をつくりだすこともおこなわれました。
先住民族のイレズミ慣習は、南北アメリカ、シベリア、東アジア、ポリネシア、ミクロネシアなど太平洋を囲む地域をはじめ、東南アジアや西アジアなどにみられます。現在確認されているもっとも古いイレズミは、およそ5000年前の人のものです。オーストリアとイタリア国境近くのアルプス山脈のなかで発見されたミイラの男性で、背中やひざ、足の甲やふくらはぎ、くるぶしなどに平行線や十字形のマークが入っていました。これらのイレズミは、針治療のように痛みを抑える目的で入れられたのではないかと考えられています(※10)。シベリアのアルタイ山中のパジリクでは、紀元前400 年ごろと思われる遊牧民の族長の皮膚に見事な文様が発見されています。日本では縄文時代より土偶の身体や顔に文様が刻みつけられており、何らかの身体装飾が存在したことがうかがえます。ただし、イレズミか瘢痕文身、ボディ・ペインティングのいずれであったのかは、温暖湿潤な日本の気候もあり、ミイラが発見されていないのでよくわかりません。
男女ともにイレズミをする文化もあれば、男性のみ、あるいは女性のみがイレズミをする文化もあります。東アジアでは、北海道のアイヌ女性は顔と手に、奄美や沖縄の女性は手にイレズミを施していました。台湾原住民族においてもタイヤル人やサイシャット人は男女ともに顔に、そしてパイワン人やルカイ人では、男性は胸から腕にかけてと背中に、女性は腕から先にイレズミをしていたのです。技術者は、男性がなるべきとされている文化もあれば、女性とされている文化もあります。技術者はシャーマンや治療者も兼ねる場合もありました。技術は親から子に受け継がれる場合もあれば、継承権が売り買いされることもありました。タイヤルのおじいさんに聞いた話では、技術者はでたらめな行動をする人は決してなることができないものだったそうです。とても立派な人で、未来などが占える人であったとの話でした。
イレズミは非常な苦痛と危険に直面する行為だったため、少しずつ面積を広げられるこ とも多くありました。段階的に面積が広げられたもう一つの理由は、当人の年齢や地位や身分が上昇するたびに新たにイレズミが付け加えられたことが挙げられます。イレズミしている間、ポリネシアや沖縄などでは、イレズミをしている人のまわりに友人たちが集まり、歌をうたってはげましました。イレズミをした直後は、施術した箇所に風が当たらないように家屋の奥で休ませたり、特別な植物の汁を塗りつけたりして傷を早くなおす処置がとられました。両手の甲にイレズミする奄美や沖縄の女性、頬からあごにかけて広くイレズミをする台湾のタイヤル女性などは、イレズミをした後、手や顔が倍以上にふくれあがったそうです。傷が癒えて美しい色が浮かび上がるまでに、およそ1ヵ月。完成のあかつきには、家族や村の人々がご馳走をつくってお祝いをしました。少女が死を覚悟するに十分な試練を乗り越えたことを、皆でよろこびあったのです。
◆トライバル・タトゥーの文化と歴史
先住民族のイレズミは手や足、顔、背中、胸などにおこなわれるだけではありません。昔、ハワイでは男性では顔、肩から腕、胸と腹、腰から足先にかけてさまざまな文様をイレズミしました。女性は手の指から甲と腰にイレズミしたのですが、首長を亡くしたときなど痛ましい出来事があったときは、舌先にイレズミをしたそうです。イレズミの技術者は、施術を希望する女性の舌にあらかじめ色素を塗りつけた先の尖った用具をおき、その上から右手に持った小さな槌でゴンと一撃!傷がつくと同時に舌に色素が入り、あっという間にイレズミが完成しました。これは、死んだ人を追悼し記念する行為でした。ハワイでは王が亡くなったときは、前歯を打ち欠き、赤く焼けた石を顔に押し当ててケロイドをつくったそうです(※11) 。
先住民族が施すイレズミ文様は、ある事象を抽象的に表現するものや、幾何学的なものです。各民族によって独自の文様を編み出しています。例えば、インドネシアのボルネオのカーヤン人は犬をモチーフにした文様を彫っていますが、私たちの身近にいる犬とは思えないほど文様は抽象化されています。また、身体を覆いつくす幾何学文様をそれ一つとしてみるのではなく、全体を構成していく小さな文様一つひとつにも名前があり意味がある場合も多いのです。南太平洋のフランス海外領のタヒチを構成する五つの諸島の一つ、マルケサス諸島では顔から手足の指先まで埋め尽くすイレズミで知られてきました。マルケサス諸島は、紀元850年ごろに、ハワイ諸島やソサエティ諸島、イースター島などに移住していったポリネシア人たちの分岐点となった島々です。20世紀のはじめにスケッチされた図を見ていただくと、身体にくまなく施されているイレズミの各部分に名前があることがわかるでしょう。
ボルネオのイレズミ文様。Hose,Charles & Mcdougall,W.1912 Pagan Tribes of Borneo.London: MacMillan & Co.の図を再録した。
また文様は、祖先の名そのものを表す場合もありました。イギリスの船員であったオコンネルは、ポナペ島の首長の養子となったとき、その王室に受け入れられるためにイレズミをしなければなりませんでした。女性の技術者二人がかりでまる一週間かかったイレズミの方法は、とげを打ちつけたイレズミ用板で、前もって下書きしていた点を叩いていくものでした。イレズミした後の傷は、炭と油で治療されました。オコンネルは、身体じゅうにほどこされた意匠をこらしたイレズミは、ポナペ島民の過去の首長や貴族たちの名前を表していることを後に知ったそうです (※12)。
このように抽象性と奥深さのある先住民族のイレズミは、現代タトゥーに多大な影響を与えてきました。それはトライバル・タトゥー(tribal tattoo)と呼ばれ、1960年代初めに登場し、現在、最も流行している図柄の一つとなっています。1960年代まで、アメリカではタトゥーは時代遅れの代物と思われていました。彫師は肉感的な女性の裸やナイフが突き刺さったハートに鷲などの決まりきった柄を、客が指定した場所に彫っていました。何かの記念や土産がわりに彫られていたので、愛好家の身体はいくつもの小さな図柄で埋め尽くされている状態でした。図柄の多くは、何が彫られているのか一目でわかる具象的なものでした。それはそれで味わいがありますが、垢抜けてはいませんでした。
1960年代に入ると、作家性のある彫師たちが出てきます。彼らが発見したのは日本の彫物であり、先住民族のイレズミでした。ストーリー性のある図柄を身体全体に配置する日本の彫物や、黒1色で事物を抽象的に表現する先住民族のイレズミに、アメリカやヨーロッパの新世代の彫師たちが魅せられたのです。彫師たちは、それらの要素を取り入れて、新たに洗練された図柄を創り上げていきました。タトゥーは蘇りました。船乗りや兵士、バイク野郎などが中心であった顧客は裾野が広がり、流行に敏感な若者たちを取り込むようになりました。さらには、現代美術とも接点をもつようになっています。80年代以降は、タトゥー専門誌が続々と創刊されたことや、インターネットの発達が起爆剤となり、情報は先住民族と都市に生きる人々を直接つなぐようになりました。日本や先住民族の世界に還流したタトゥーの図柄は、モコにみるように人々が彫る図柄にさらに影響を与えています。トライバルの図柄は、タトゥーに留まらず、Tシャツなどの衣類にワンポイントとして施されるようになっています。小説や漫画、映画、ゲームなどの主人公が、タトゥーを施していることも多くなりました。私が研究を始めた10数年前に比べたら、今は街じゅうにタトゥーがあふれているようなものです。
◆トライバル・タトゥーを入れたあなたに
これまで出会えた人々を通してですが、イレズミは古代から現代、洋の東西を貫いて、心の奥から突き上げてくる衝動に支えられているように思えます。先住民族の若者たちも、都市の若者たちも、「自分らしさ」や「自分とは何者なのか」を追い求めた結果 、タトゥ ーに辿りつく人が多いようです。その意味でも私たちは同時代を生きる仲間なのです。遠く離れ、隔てられているようでも、同じような悩みと孤独、無力さを抱えているのです。肌に彫りこんだタトゥーを通 して、私たちは深く共鳴しあっています。
トライバル・タトゥーを入れたあなたに、最後に一言。トライバル・タトゥーは確かに格好よいものです。でもそれを選んだあなたは、ただデザインとして消費するのではなく、その源泉となった人々の暮らしや文化に思いを馳せてほしいのです。トライバルはただのマークではなく、先住民族の信仰や世界観を具象化したものであり、それゆえに力強さを持つのです。旅と同じく、知ることによって広がる世界があるのです。それは、決して難しくはありません。インターネットによって、私たちと先住民族はより近く結ばれるようになったのですから。
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※10 コンラート・シュピンドラー 畔上司訳 1994『5000年前の男-解明された凍結ミイラの謎』文藝春秋社 pp.253-260
※11 Mark Blackburn 1999 Tattoos from Paradise: Traditional Polynesian Patterns. Schiffer Publishing. Atglen Pennsylvaania p.89, Brain,Robert 1979 The Decorated Body. Hutchinson & Co. Ltd. ,London p.58
※12 J.E.リップス 大林太良・長島信弘訳1988『鍋と帽子と成人式-生活文化の発生』八坂書房 p.30