トライバル・タトゥーって何?-「先住民族ドットコム」的イレズミ講座【その2】 - 雑貨店Noichi(ノイチ)の運営 | 有限会社溝上企画

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トライバル・タトゥーって何?-「先住民族ドットコム」的イレズミ講座【その2】

山本芳美
1968年生まれ。イレズミ研究で博士号をとった珍しい人。図書館司書、雑誌編集、ライターなどの仕事に手を染めた後、台湾に2年半留学する。現在は、都留文科大学比較文化学科講師(文化人類学専攻)。台湾原住民族との交流会会員でもある。

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◆夢見るイーチン

台湾でトンボ玉をつくるイーチンと友だちになりました。イーチンは、台湾を月桂樹の葉に見立てれば茎の部分に近い山に住む、先住民族パイワンの女の子です。初めて会った時、彼女は左の小鼻に小さな金のピアスをし、長い黒髪をおさげにして、瞳にターコイズ色のコンタクトを入れて、トンボ玉を売っていました。その後、工房に遊びに行ったら、ケラケラ陽気に笑いながら働いていました。トンボ玉づくりは見習い中のようで、溶けたガラスをあやつる彼女に工房の仲間から「材料を無駄にしなさんな!」とからかう声が飛びます。自分でも認めるように、お客さんを相手するほうが向いているので、普段は工房に併設されたカフェでコーヒーを点て、都会でイベントがある度に車にトンボ玉 を積んで売りに行 きます。

仕事が終わる頃を見計らって、平地の商人が工房のすぐ上にある展望のよい食堂に洋服を行商しにくると、イーチンは工房の仲間たちと誘い合って見にいきます。一枚、一枚、しゃれた服が広げられるたびに皆、「ヒュー」「ヒュー」と歓声を挙げ、くったくなく笑い合います。服屋を冷やかした後は、私を連れ、頭にターバンを巻いたセクシーな同僚ガルスと車に乗り、ヤシ林と砂糖キビ畑を抜け、ライブ付の屋外レストランに台湾風しゃぶしゃぶを食べに行きます。ピアノを弾き語りしていた同じくパイワンの男性はオールデイズ中心のステージを終えると、「来てくれたんだ」とガルスに嬉しそうに話しかけました。じらす彼女からようやくデートの約束を取り付けた彼は、ひげだらけの顔をほころばし、不自由な両足につけられた金具を鳴らしてバイクに乗り込み、暗闇に消えていきました。イーチンはにやにや笑い「ガルスはもてるのよ。あの人、ガルスが好きでたまらないの」と話しだし、ガルスはにらみつけました。しかし、いつしか話題は、1 人ひとりの前に置かれている小さな鍋から立ちのぼる湯気のようにとりとめないものになっていきました。私たちが盛んに鍋をつっつく姿は、どこの街角でも見られる若い女性たちが笑いさざめく姿と変わりなかったはずです。

陽気な2人組。左はガルス、右はイーチン。

ガルスより若いイーチンは恋のほうはおくてのようでしたが、自分が働いている工房を亡くなった夫とともに創り上げた女主人を深く尊敬していました。イーチンの説明によれば、女主人と夫は、村の女性たちが村に収入の道がなく子どもを連れて出稼ぎしなければならない状態を憂慮し、トンボ玉工房を立ち上げたそうです。十数年を経た今、小さな村に子どもの声が響いています。子どもが消えれば学校がなくなり、村はさびしくなる。子どもがいる人は、今度は子どもを学校にやるために村を出て行かざるをえないのです。ここの工房には、すでに20人前後の女性たちが働いています。工房で熱心に働く職人さんに「男の人たちは、今何をしているの?」と聞いたら、カラカラと笑って「ある者は警察官に、ある人は公務員さ。そうじゃなきゃ、家で昼寝」と言い放ちました。その話し方には、自分の力で日々稼ぐことから得られるゆるぎない自信がみなぎっていました。イーチンは、同じ村に住む芸術家のサクリュウ(撒古流)氏の思想にも共鳴していました。彼は原住民族の文化を復興させるグランド・デザインを描き、そして村のなかで実践しているのです。彼女の部屋に泊めてもらったら、空色に塗られた部屋の片隅に、失敗したトンボ玉 がいっぱい詰められたビンとサクリュウさんの本が置いてありました。きらめくトンボ玉が、彼女の夢を語っているようでした。

◆もう一つの夢はイレズミ

イーチンやガルス、そして工房の仲間にはもう一つの夢があります。それは自分たちのイレズミの復活でした。私が帰る間際、イーチンやガルスはいささかかしこまった顔で、「イレズミをしたいけど、どうしたらいい?」と切り出しました。彼女たちは連れ立って村のおばあさんのところに行き、昔のパイワン女性たちはどのようにイレズミをしていたのか、聞き歩こうとしていました。そこにタイミングよく現れたのが、イレズミ研究と称して出歩いている私、というわけです。
「一体、何だってイレズミしたいわけ?」。
「だって今、私たちがイレズミをしなければ、パイワンの伝統はなくなってしまうわ。ガルスと私は、工房がひまな時期にイレズミしようと思っているの。両手にいれたら、一ヵ月は仕事できなくなるからね」。
「どこでやるの?」。
「村の男の人が、平地でイレズミの機械を買ってきたの。彼はよくイレズミのことを知っているから、大丈夫。ねえ、私たちが入れるときに、あなた来てビデオで撮影してもいいわよ」。
大丈夫って、イレズミの衛生管理は大変なのに。外界と接触の少なかった昔ならともかく、血液の病気が蔓延している現代では、いい加減にやったら、たちまち病気をもらうかも……。

私は心中あせりました。
「話をもっと聞かせて」。

イーチンは、20歳から誕生日のお祝いに「イレズミ」をねだってきたそうです。平民、貴族、頭目と身分制のあるパイワンのなかで、イーチンは貴族の家系だそうです。だから、「貴族のイレズミができるだろう」とお母さんは答えたと言います。小さい頃からおばあさんと一緒にいたので、若い人には珍しいくらいパイワン語が話せるイーチンは、トンボ玉工房に勤めるうちに、パイワンの伝統に関心を深めていったようです。伝統を復活させたかったから、村に残ったと言い換えてもいいかもしれません。パイワンの伝統に対する彼女の熱い思いは、自分の身体にイレズミを施すことによって、伝統をよりしっかりと村のなかに復活させようという願いにつながっていったようです。

サクリュウさんや工房の女主人たちを中心として、イーチンやガルスのように村の中で彫刻や陶芸、トンボ玉づくりなどで生計をたてている若者たちは、皆、パイワンの伝統に深い関心をもっています。おそらく、タトゥーマシンを手にいれてきた若者もその1人でしょう。私は、トンボ玉工房に勤める三人の女性が、手首や中指に幾何学文様のイレズミをしていたことを思い出しました。彼の作品だと教えられたイレズミは、伝統的なイレズミに対するぼんやりとしたイメージを無理やり固定してしまったような印象を受けました。濃い直線的な線は、微細な線でなりたつ伝統的な文様とは似て異なるもので、これまでパイワンに存在しなかったイレズミとなっていました。

◆パイワンにとってのイレズミ

かつて、パイワン人は、長い木の柄に針を下向きにくくりつけ、それを加減しながら木槌で叩いて傷つけた肌にきれいに鍋墨を擦り込むことによって、イレズミをしました。男性は胸から腕、そして背中にイレズミし、女性は腕か手首から先をびっしりイレズミしていたのです。イレズミの有無、そしてイレズミの範囲は、平民、貴族、頭目と身分によって異なったといわれています。身分が高いほど範囲が広く、華やかに身体を彩 ることができました。ところが、日本が台湾を植民地にした後、イレズミはさまざまな理由から厳しく禁じられ、人々はイレズミ慣習から離れていきました。イレズミの伝統が途絶えてから、およそ70年。長い年月は、伝統を追い求めることに熱心なパイワンの若者ですら、自らの文化をたどることを難しくしていました。

「平地の彫師さんを紹介してもらってもいいな。誰か知らない?」というイーチンに、私は「それじゃ、意味がないんじゃない」と答えました。パイワンの伝統を復活させる意味でイレズミをするなら、現代的なタトゥーを手がける漢民族の彫師に彫ってもらうのはどこか筋が通らない。その青年に機械で彫ってもらうのも何か違います。理屈上目指すべきことと幸せは噛みあうのでしょうか。現代を生きる彼女たちが、袖口からどうしたってはみだす手にイレズミを入れることで、行動範囲が狭まってしまう可能性もあります。私を頼ってきたイーチンとガレスにかろうじて約束できたのは、 1950年代に発表された台湾原住民族のイレズミに関する論文を送ることでした。いい加減な文様を入れるよりはマシかも、と思ったからです。イーチンとガレスは私を見送る際に、「時期が決まったら連絡するね」と手を振りましたが、まだ何の知らせもありません。

いずれにせよ、台湾においてはイレズミを通して先住民族の伝統を復活させようとする試みは、まだはじまったばかりです。先住民族が今後、自らの伝統であったイレズミをどうとらえていくのか、再び自らの文化に組み込んでいくのか、それとも完全に捨て去ってしまうのか、人々自身が選択すべきことだと私は考えます。ところで、イレズミを現代に復活させようとする動きは、すでに始まっています。イーチンやガレスのいる台湾から、さらに南の島で。

◆伝統復活!

太平洋の各諸島には、19世紀の終わりごろまでイレズミの習慣が存在していました。ニュージーランドのマオリ人にほどこされるモコ(Moko)もその一つです。曲線を多用したデザインが特徴で、直線や幾何学文様で構成されることの多いオセアニアの他地域の文様と異なります(※5) 。マオリ男性は顔全面のほか身体にもモコをほどこし、女性は下あごから唇にかけてモコをおこなっていました。モコは、社会的地位 と自らがどのグループに属するのかを表していました。長老格の貴族たちにとってもモコは真の誇りでした。ある白人画家がマオリの首長の最も写 実的な肖像画を描いたときなど、モデルに鼻先で笑われたそうです。首長は砂の上に自分のモコの文様を描いて、「これが私の姿だ。おまえの描いたものは意味がない」と説明したそうです(※6)。モコそのものが、自らの姿ととらえられていたのです。19世紀にはイギリス人の博物学者などが、モコをさかんに絵や写真などで記録しましたが、モコそのものは19世紀後半から20世紀はじめにかけて宣教師や植民地政府によって禁じられました。ヨーロッパ的価値観による非難や抑圧を避けて隠れ住んだお年寄りに、古式のモコを見ることができるそうです。このような経過をたどって、モコは一度は死んだ慣習となりました。19世紀後半から20世紀にかけて、世界中のイレズミや身体を加工する慣習がたどった運命を、マオリのモコもたどったかに見えました。

しかし、1970年代から顔や身体にモコをほどこす人々が現れます。どのような人々がはじめたのかは諸説あるのですが、最初は都会に住む若者だったといわれます。中心となったのは、52.7万人、全人口13.8パーセントを占めるマオリを囲む現状―差別や貧しさにNo!を唱えるとんがった若者たちでした。若者たちは、ニュージーランドのなかで、マオリのエスニック・アイデンティティーを強烈にしめす美として、モコを見いだしたのです。モコは静かに、しかし着実に広まっていきました。

今から数年前、モコをほどこした人々をオランダ出身でNYを中心に活躍する写 真家ハ ンス・ネルマンが撮影した『MOKO―MAORI TATTOO』(※7)という写真集が出版されています。収録されているのは、人々の肖像写真やインタビューです。15歳の時、ひいおばあさんのモコをそのまま引き継いだトマナコ・ケーパという女性もいますが、現代モコの多くは、現在のマオリ文化のあり方を象徴するかのように、ヨーロッパやアメリカで流行のタトゥーと融合しています。本来は黒1色だった色彩に、緑や赤、青が加わり、自分の名前や星、ライオンなどの具象化したイメージを彫りこむようになっています。NZ政府に勤めていたというディオン・フタナという男性はこう語ります。「……マオリ語を習いはじめたんだけど、そうすぐには話せない。だからボディ・ランゲージとしてモコをしたんだ」(※8)。

マオリの人々によるモコの復活を受け、2001年よりニュージーランドに国立タトゥー博物館が設立されました(※9)。現在、モコに関する写真や資料の収集と公開だけでなく、モコの歴史をたどる彫刻や肖像画を地元のアーティストに製作するプロジェクトも進行しています。博物館は、南太平洋をはじめとするイレズミについて、民族のアイデンティティーを示すものや現代的なタトゥーを問わず取り上げていく予定だそうです。なお、博物館の後方にはタトゥースタジオが、他にも国内外の芸術家の作品を紹介するギャラリーが併設されています。

私は今から5年ほど前、台北で開催された世界中の先住民族が集まった大きなイベントで、マオリの高校生たちに会いました。彼らは勇猛なダンスを踊る際、男の子も女の子も顔にモコを描いていました。私も引率の先生にお願いして、あごにモコを描いてもらいました。先生が「これはプリンセスのためのものなんだよ」と話しながら、マジックペンを動かしていきます。ちょっと乾燥してキシキシするペン先が、顔にあたります。マオリのモコ文様は、あごの部分は地から沸き起こるエネルギーであり、額の部分は雲を表していることなどをうかがいました。後で油性ペンで描かれた文様を落とすのが大変だったこともあわせて、忘れられない思い出となっています。

これまで学問的には、イレズミは装いの一つであり、通過儀礼や他界観、性愛に関連し、勇敢さや貞淑さ、集団へのアイデンティティーの証しであると整理されてきました。民間治療の一つとしておこなわれる場合もあり、沖縄県全域では、リューマチや神経痛に効くとして泡盛で墨を溶いてツボに刺していました。上記の理由に、最近は伝統を見直すためにイレズミをする人々も現れている、と付け加えたほうがよいでしょう。

◆否定派か、推進派か

先日、60歳以上の年配の方、40名ほどの前で日本の刺青についてお話する機会がありました。若者たちがなぜタトゥーをしたがるのか、私がこれまでに巡りあった人々の話をしました。最後に質問をお願いすると、白髪の紳士が手を挙げました。顔を硬くこわばらせています。

「あなたが話してきたことは、日本でも特殊な人々のことでしょう。私は身体髪膚(はっぷ)これを父母に受く,敢えて毀傷せざるは孝の始めなりって、育った世代です。だから、若い人たちのタツーだなんだって言っても抵抗がある。そのときは良くても、いずれは後悔するのではないですか。だいたい、タツーの話をしているあなたは、推進派なのですか?それとも否定派なのですか」。

「またか!」。

私は心の中でそう思うと、一息ついてから答えました。
「日本で若い人がこれだけ集まったら、誰か1人ぐらいはタトゥーを入れている時代になってきています。否定しようが何をしようが、これは動かせない事実です。私は、否定派でも推進派でもありません。文化人類学者として、現実を見ているだけです」。  

私は認めない、私は嫌いだ、と声高に叫ぶだけでは、実はその人々と同じ土俵には乗っていないのです。自分の意見を表明しているだけで、相手に全く届いていないのです。日本におけるタトゥーに関する議論は、多くは感情的なレベルに留まっています。まるで、離婚や夫婦別姓に関する議論のようだ、と私はそのおじさまに答えつつ何だかおかしくなりました。2分10秒に1組が離婚するといわれる時代に、離婚の是非を論じたってしょうがないのです。「離婚すべきでない」との議論をよそに、離婚する人はしてしまうのですから。同じくタトゥーも、やる人はやるのです。おそらく会場の中には、離婚を経験されたり、再婚された方もいらしたでしょう。でも、過ぎてしまったことに対して、他人から道徳論をぶつけられてもどうしようもないのです。離婚と同様に、タトゥーをした人が後悔するかどうかは人によって違うのです。

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※5 モコについては、Tu moko http://www.tamoko.org.nz/artists/tumoko/
Ta moko http://www.tamoko.org.nz/
アメリカのサイト http://www.tattoos.com/ などを参考に。(いずれも2004.2.25アクセス)

※6 J.E.リップス 大林太良・長島信弘訳 1988『鍋と帽子と成人式―生活文化の発生』八坂書房 p.30

※7 詳しくは次のサイトを参照。Hans Neleman’s Moko-Maori Tattoo Project by Jane Taylor http://www.rangefindermag.com/Magazine/Archeives/July00/hans.tml(2004.2.25にアクセス)

※8 Hans Neleman 1999 MOKO-MAORI TATTOO. Edition Stemmle,NY, p.129.134

※9 “The National Tattoo Museum Of New Zealand” http://www.mokomuseum.org.nz/(2004.2.25にアクセス)

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